私にとってのxは、初めてスタジアムにブランメル仙台(当時名称)の試合を見に行ったのが1996年のことだから、29になるだろうか。仕事で関わるようになったのは2004年だから、その場合は20か。より深く関わるようになったという点で言えば、こちらのxの値が正しい。秋にはその値が21になる。初めて商業媒体で執筆した2004年11月1日の記事は同年J2第40節のマッチレポートだったのだが、それの見出しが「仙台 昇格消える…」という縁起でもないものだったことを忘れることは多分ないだろう。
引き分けで同年のJ1昇格の道が断たれたときが、私のレポートの始まりだった
デビュー作は苦い試合のレポートだったし、その後にも長く苦しいJ2暮らしが続いたけれども、その過程で様々なクラブ史の瞬間を現場で感じ、伝えることができた。たとえば、xの値が合計18になった梁勇基という選手が2008年のJリーグで最後のゴールを決めたJ1・J2入れ替え戦第2戦の場に居合わせたこともあれば、J1昇格を果たして迎えた2010年のJリーグで最初のゴールを決めた第1節・磐田戦の熱気を伝えたこともある。勿論、その間の2009年に、J1昇格を内定させた試合も、J2優勝を決めた試合も。
歓喜の瞬間も苦い経験も、挙げればきりがない。クラブ史の中で困難な時期は少なくなく、たとえばJ2下位に終わった昨シーズンは最悪といえば最悪だったのかもしれないが、最も苦しかったのは成績が低迷することよりも、そもそもプレーができるのかどうかもわからなくなること。2011年の東日本大震災発生から間もない頃のチームの表情も、その後に立ち直ってJ1の優勝争いやアジアでの試合に乗り出したことも、記憶に焼き付いているし、伝えられることを伝えてきた。
またベガルタ仙台がJのピッチに戻ってきた、あの日
私はこの仕事を始める前は、2001年J2最終節における“西京極の歓喜”も、2003年J1 2ndステージ最終節における“大分の涙”も、遠くからの中継を眺める立場だった。この仕事に関わる限りは、あのときにできなかった現場での人々の表情や雰囲気をできるだけ感じるとともに、場に行けなかった方にそれを伝え続けたい。クラブ史上の節目だけでなく、様々な記憶を。
“西京極の歓喜”を体感した方々の土産話が楽しく、羨ましかった