12月28日(月)、村上和弘選手引退記者会見を行いました。
掲載日:2015年12月28日
12月28日(月)、村上和弘選手引退記者会見を行いました。
村上和弘選手引退記者会見
お忙しい中、皆さんにたくさん集まっていただいてありがとうございます。
私、村上和弘は2015年のシーズンをもちまして、現役を引退することを決めました。いろいろな思いはありますけれども、選手である以上は常にプレーしたい、辞めたくない、まだできる、というたくさんの思いがありますけれども、常々ずっと心がけてきたことは、評価するのは周りの人間であって、自分の評価は自己分析にしか過ぎないということを自分に言い聞かせてやってきたので。
先月、クラブからリリースを出していただいて、契約満了というかたちで、退団することが決まって、その時から、現役続行という強い気持ちを持って、まずはトライアウトというところにターゲットを絞って、自分の中でコンディションを保ちながら勝負できるようにやってきました。
トライアウトに関しては、今できる自分の最大限のプレーができたと思っていますし、自分のキャラ、プレー、村上和弘という選手、人間、すべて表現して帰ってこられたという自信があるので、何一つ悔いもないですし、本当にやり切ったという気持ちで、トライアウトに行くことができました。
ただ、自分はこれまでずっと、今のサッカー界では常識的といえる代理人をつけず、幸いにも一人で、自分でいろいろなことを考えて決断して、ここまで17年間をやってこられたので、そのスタイルだけは最後まで貫こうというのもありましたし、自分の中での情報だけを頼りに、模索はしたわけですけれども、今の時点で、実際に新しいチームからのオファーもないですし、もしかしたらまだ待てば話をいただけることもあるかもしれない、年が明けて新しいチームにトライしに行くという選択肢も残されていたと思うのですけれども、ここ数年のコンディション、体の状態、実際にピッチに立つまでのトレーニングも含めて、トレーニングしている回数というか、頻度、けがの多さ、いろいろなことを含めて、自分の体に問いかけてみると、新しいチームがあったとしても、そこに行ってまた一年間を戦えるかといったらまた厳しいか、という判断も実際にありました。
それでも、そういう部分も気持ちでカバーできるんじゃないかと、執念、情熱、そういったものでなんとか補っていけるんじゃないかという気持ちもありました。けれども、やはりお話をいただいて行ったとしても、迷惑をかけるんじゃないかと思いました。
ここまで来て、周りの人に「お前はやめた方がいいんじゃないか」とか、「お前はもう終わりだよ」と言われるよりは、自分の中で線を引いて「やめます」と決断することが、次へのいいスタートになるのかなというところで、今回は、もうやめようと決めました。
本当に、簡単に決められることではなかったですし、言ってしまえば、言い訳みたいなものはたくさんしたいし、たくさん言いたいことはありますが、実際に自分のプレーヤーとしての自己分析をした結果、さらに周りの方々の評価を自分の中で照らし合わせてみると、ここが終わりかなという結論に至ったというのが、自分の中での考えです。
本当に、たくさんの方にこの決断を直接伝えることがまだできていないのですけれども、やはり自分の中でそのきっかけをつくってくれた方々に連絡をしたところ、「本当にお前はよくやった」と。トータルで17年間、大した選手ではなかったけれども、プロのサッカー選手として、17年もやれるとは思っていなかったと。正直、そういうふうにみんなに言われますし、自分自身が一番驚いているので、ここまで、今この場に座って皆さんに集まっていただいたことを考えると、自分でもよくやったというのが正直な気持ちです。
■17年間という期間、プロサッカー選手としてプレーできたのは、どんなことがつながってきた、積み重なってきたと感じていますか。
自分の言葉、評価は自己分析でしかないということを理解してもらってになりますが、17年という期間は、自分が34歳なので半分。人生の半分をこの世界でやってこれたというのは、正直自分自身が一番驚いています。毎年毎年、契約を更新してもらってびっくりして、嬉しく思ってきた積み重ねが17年になったという思いが強いです。「何が」という部分については、私は若い選手や周りの人に、ちょっとした実力と運でここまでやってきたと言っています。これは自虐的かもしれないですけど、自分は上手い選手、凄い選手だと思ったことは一度もないですし、自己分析を間違わずに、自分を理解して、自分を持てていたと思っていて、それが大きかったと思います。それによって見えてくる、できること、できないこと、やらなければいけないことを日々積み重ねてきたことが、続いてきた要因だと思います。
あとは、私のような選手は情熱、執念、それが試合になれば戦う気持ちになります。がんばるというと簡単な言葉ですが、がんばり続ける、自分のできる努力を続けてきたことなんだと思います。
■17年間でたくさんあるかとは思いますが、思い浮かぶ印象的な試合、シーンをいくつか挙げていただけますか。
ベガルタ仙台に2回所属しているのも含めて4つのクラブにいました。最初の2年間は、プロの壁にぶつかって、順応できない、苦しい思いしかなかったです。その後、当時はトライアウトもなかったですが仙台に加入することができて、必死にやってきた結果、自信を取り戻せて、ここまでやってこれたきっかけになっているのが仙台です。その仙台で、家族を持てたということでも印象深いですし、最終的にも戻ってくることができて、チャンスを貰って、引退できたということで沢山の思い出、シーンはあります。自分が大切にしていきたい、いろいろな思い出のなかでも、仙台で何があったかというようなことは大事にしていきたいと思っています。
なにか一つ、二つというのは本当に難しいですが、まぐれあたりでゴールを決めさせてもらったシーンもありますけども、一つは、ベガルタ仙台を最初に出て行く2006年の神戸とのホーム最終戦。今でも印象に強く残っています。後は引退するとなって振り返ると、2014年の浦和戦。思い出に残るというか、いろいろな意味で、沢山の人達の頭の片隅に残るようなゲームになったのではないかと思います。
■これまで、一番影響を受けた先輩、指導者、この人の姿勢を見習ったといったものはありましたか。
指導者に関しては、沢山の監督、コーチにお世話になってきました。今の自分につながるきっかけをくれたのは清水(秀彦)さんだと思います。ちょっと運命的な話ですが、清水さんには本当に沢山の経験、嬉しい思いや、悔しい思いをさせてもらって、後々それが今につながったことを考えて、お礼を言いたいと思っていて、仙台にいらっしゃる、いつか何処かで会えるかなと思っていたら、今日の昼ごはんでお店にはいったらばったり会えて。その思いを伝えられて。自信をつけさせてもらったり、試練を与えられたり、感謝しています。
先輩方に関しては、私は周りの人に恵まれて、いままでやってこれたなと思っています。だれか一人を挙げてしまうと自分の中で差をつけているんじゃないかと思ってしまうんですが、仙台が最初J1に上がった時に集まってきた選手というのは、去年、仙台の平均年齢がというのは言われてましたが、その時の方が平均年齢が上だったかもしれませんが、強いチームでしたし、年齢に負けない人達、凄いのに鼻高々ではない人達ばかりでした。名前を挙げてしまえば森保(一)さんなど、本当に凄い人達とプレーさせてもらいました。
また、この場を借りて感謝したいのは、ナベさん(渡邉晋監督)です。指導者、選手の両方の立場で、たくさんのことを与えてもらったと思っていて、感謝しないといけないと思っています。
■今後の予定について決まっていることはありますか
いつ、どこで自分にこういうリスタートする場面がくるのか、常々考えてきたつもりですけど、自分ではこの先、スーツにネクタイで仕事をする、パソコンに向かうというのが向いていないと漠然と思っていて、指導者という方向に進んでいきたいを思っています。契約満了時にアカデミーにというお話はクラブからいただいてはいました。そこに甘えずに現役にこだわらせてもらいましたが、引退という決断をしたからにはそういった方向に向かう覚悟もしています。
■ベガルタ仙台をはじめ、いままで応援してくれた方々へのメッセージをお願いしたいのですが
まとめてできる話でもありませんし、あの人にも、この人にもというのもありますし、紙に書いて順番にお礼を言っていきたいくらいまとまっていないのですが、応援してくれた方々に感謝しています。先日(天皇杯準々決勝)も横断幕を出してくれて、ひとことでは難しんですが、感謝しかないです。自分のような選手をひとりでも応援してくれる人がいると思うとモチベーションになります。2014年の浦和戦の後に「感動したよ」とか「良かったよ」とか言ってもらって、誰かの気持ち、気持ちが通じた瞬間、気持ちが通じた人達の思いを考えると、ありがとうございますとしか言葉がありません。
あとはこの場で言っておかなくてはいけないのは、やっぱり家族がいなければ、ここまでやっていないと思います。自分の両親、姉と兄、みるからに末っ子で小さい頃からやんちゃで迷惑をかけた自分ですけど、それなりの大人になれたのかなと思います。それから仙台で結婚して家族ができて、子どもが生まれて、仙台を出て、もう一人子どもが生まれて、また仙台に帰ってきて。ということを考えると、どんな時も、口を出さずに、私の考えることについてきてくれた奥さんに一番支えてもらったので、感謝していて、ありがとうと言いたいです。
■引退を決断したタイミングは
漠然とそういった覚悟は持っていて、プロになって2年目で横浜F・マリノスを出て、死に物狂いでプレーして、6年間仙台でプレーしてまた出て、2006年のオフに覚悟ができたというか、契約満了という言葉の意味には免疫があったといいますか、ネガティブな感覚を持たないようになっていました。もう一度這い上がるという強い気持ちと、モチベーションに変えていました。
ただ、契約満了になった後、チームがなければ現役を終えなければならないということを考えながら、ここ一ヶ月はやっていました。トライアウトが終わって、仙台に戻ってきてトレーニングしていて、そこでコンディションの不具合があって、チーム内にも怪我人がいたのでチャンスが回ってきそうな時に、ここで勝負しようという気持ちが出てきた中で、家族、奥さんとはいろいろな話をしてきましたが、天皇杯準々決勝の前日の夜に「やめる」ということを伝えました。子どもにも話をして、上の子は泣いてしまったんですが、子どもの中にプロのサッカー選手という価値観、父親としての格好はつけれてこれた、印象、イメージが子どもにあったからもっとプレーして欲しいと思ったのかなというのはありますけども、その日が家族として決断した日、伝えた日になります。
クラブに関しては、その試合が勝っても負けても最後と決めていたので、当日朝にナベさんに伝えました。試合後にクラブに伝えました。
■監督からはどんな言葉がありましたか
仙台に加入する時(2014年)に本当に沢山の話をして、契約満了になってからもいろいろな話をしてきたので、「そうか」という感じで。それ以上、どうこうということはありません。自分がやめますと伝えた時の監督の表情や雰囲気で十分でした。自分で決断して伝えられたということ、「お前、もうやめろよ」と言われないで良かったな(笑)というのがあります。
■天皇杯準々決勝にかける思いは相当だったのでは
そうですね。でも全然思ったようなプレーができませんでしたし、やっぱりいろんな意味でここまでだなと感じたといいますか。梁(勇基)なんかも「まだできるよ」と言ってくれますが、自分の体のことなので。さっきの話と逆で、気持ちがなければ結果を得られないという信念を曲げるつもりはありませんが、気持ちだけでは結果が得られないなというのを実感して。
これからはどういったカテゴリーや子どもと対していくか分かりませんが、そういったところの大切さも伝えていきたいなと思います。
■これからはアカデミーでということになりますか
そうですね。話をいただいているので。範夫(高橋GKコーチ)さんも原(原崎政人コーチ)さんもアカデミーになりますし、ユースには越後(越後和男ユース監督)さんもいますので、勉強していく、いろいろな方々に囲まれて、また周りには恵まれたのではないかなと思います。これからどういった人生になっていくのか不安というか、楽しみというか、とにかくお世話になって、勉強していこうと思っています。